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本:『ベートーベン:ザ・マン・リビールド』(洋書)

『ベートーベン:ザ・マン・リビールド』(Beethoven: The Man Revealed)という洋書を読みました。この本を読むのは、これで二度目です。

ナポレオンの伝記を読み終わってから、ヨーロッパ各地で沸き起こっているナポレオン戦争という時代背景も合わせて、ナポレオンと同時代に生きた天才、ベートーベンにとって、彼を取り巻く環境が私生活にどのような影響を与えていくのか、そして、彼の作品に起こっていく変化を再確認したくなったのです。

あいにくながら日本語訳版は出版されていないようなのですが、英語でも読みやすかったです。ソナタやカンターナといった音楽用語や、ベートーベンの病状や死因をめぐる医学用語などの専門用語以外は、全体的に易しい英語で綴られていると感じました。

内容は、初めの約70%が時の経過に沿ったベートーベンの伝記となっていて、時おり資料の乏しい箇所は、著者であるJohn Suchetさんが推測を交えています。続いて10%くらいが、著者によって選び抜かれたベートーベンの楽曲の、作曲の背景や聴きどころなどの紹介、そして残りが、ベートーベン以外の登場人物の簡単な説明と、手短にまとめられたベートーベンの年表となっています。

John Suchetさんは、この本の他にもモーツァルトなどの音楽家の伝記を執筆されていますが、ベートーベンにまつわる著作の数は、彼が出版した本の中で圧倒的に多いですね。

ナポレオンの支配地拡大という野望をめぐる不安定なヨーロッパ情勢はもとより、

酒に溺れ、堕落していく父と病床の母を持った、苦労の幼少時代

幸運とも呼べる、数々の援助者との出会い

実らない恋の数々

20代後半から訪れる、難聴という、音楽家にとっては致命傷ともいえる病状

甥の親権をめぐる訴訟問題

病気による壮絶な末期

と、波乱に満ちた生涯を送ったベートーベンですが、この本の読みどころは、著者の綿密な調査に加えて、ベートーベンを含む当事者の残した手記など、当時の記録を読むことができることです。

ベートーベンが31歳の時に書いた決意書や、手紙の数々、そして、難聴が進むにつれて必須となった筆談書は、ベートーベンの心境や実際に行われたであろうやりとりが垣間見える、貴重な資料となっています。原書のドイツ語を読めるわけではないので私には判断できませんが、それでも、文体は至極自然で、John Suchetさんがドイツ語から英語に翻訳していく過程で費やした努力や熱意が伝わってきます。

それぞれの曲の分析にフォーカスするのではなく、ベートーベンの私生活を軸とした上で、どう音楽活動がなされていったのかという風に物語が展開されているので、クラシック音楽に疎い私でも楽しんで読むことができました。

今回は、ただ本を読むだけではなく、ベートーベンの作品を聴いたり、登場人物の訪れた場所を地図で実際に確認したりしながら、ベートーベンの人生をなぞってみました。

曲によっては長いので時間がかかりますが、この本を読まれる方には、私と同じようにベートーベンの曲を聴きながら読み進めていかれるのをお勧めします。「あ、この曲、ベートーベンの曲だったんだ!」という発見以外に、その当時の彼の心境や置かれている状況などを想像することで、なおさらそれぞれの曲から受ける感銘が増します。

そして、もし可能であれば、音楽家たちの演奏の風景を見ながら聴いてみてください。汗を拭きながら指揮棒をふる指揮者や、全神経を集中させている演奏者たちの姿などを見ることで、よりベートーベンの曲の偉大さが伝わってくると思います。

私がこの本を読みながら聴いてみたベートーベンの曲の中から、印象深かった数曲を下記にご紹介したいと思います。

Nine Variations on a March by Dressler

ベートーベンが若干12歳で作曲したピアノ曲です。彼の初めての作曲と言われています。

13分ほどと短いので、初めに聴く曲としては聴きやすいと思います。後年の熟達した曲に比べると幼さはあるかもしれませんが、それでも、12歳で作曲したとは思えない深みがあります。

Cantata on the Death of Emperor Joseph II
Cantata on the Elevation of Emperor Leopold II

ベートーベンがまだ難聴を患う前の、20歳前後の2作品です。

当時のオーケストラに演奏不可能と言わしめたほどの高度な演奏技術を要する曲だそうです。既に曲調に貫禄があります。

Piano Sonata No. 8, Op. 13 ‘Pathetique’

ベートーベンが27歳の時に作曲したピアノソナタです。3部構成になっていて、それぞれまったく異なった趣があります。

中盤の繊細なメロディーは、どなたも耳にしたことがあるのではないでしょうか?

Piano Sonata No. 14, Op. 27, No. 2, ‘Moonlight’

ベートーベンが30歳の時に恋に落ちた、16歳のGiulietta (Julia) Guicciardiに捧げた曲です。序章の感傷的な旋律は、ご存じの方も多いと思います。

感情にあふれ、作品にぐっと深みが出た感じがしました。この頃にはもう難聴の症状が出始めていたと言います。

Symphony No.3, Op. 55 ‘Eroica’ (交響曲第3番)

もともとナポレオンに捧げて作曲されたものの、ナポレオンがフランス皇帝の地位に着いたことに激怒したベートーベンが、ナポレオンの名前を楽譜から削り取ったという逸話の残る曲です。

結局、別の人物に捧げられましたが、それでもこの曲を聴くと、ナポレオンの威風堂々とした姿を想像してしまいます。

Symphony No.5, Op. 67 (交響曲第5番)

『運命』と呼ばれている、あの、ジャジャジャジャーン、の出だしで有名な曲です。私の中では、ベートーベンといえば『エリーゼのために』よりも、この曲の印象のほうが強いです。

曲の出だしの4つの音符を聴いただけで誰しもがどの曲かわかってしまう曲なんて、世界中この曲以外にないのではないでしょうか?ベートーベンの才能を感じます。

Symphony No. 6, Op.68 ‘Pastoral’ (交響曲第6番)

療養と作曲活動のために滞在していた田園地帯の、穏やかな自然に対するベートーベンの愛情であふれています。

中盤、鳥のさえずりが楽器によって再現されているのが聴きとれると思います。私が視聴したビデオでは、音楽家の方たちが、楽しそうにそのフレーズを演奏していました。

小川のせせらぎや、突然の雷をともなう大雨、音楽を楽しむ村人たちなど、田舎ののどかな風景が目に浮かびます。すがすがしく、おおらかで、憂鬱な月曜日の朝などに聴くと、気分をあげてくれそうな気がします。私のお気に入りの一曲です。

Fur Elise

日本では『エリーゼのために』として知られています。ベートーベンがピアノを教えていたTherese Malfettiのために、彼女でも弾けるような、簡単なピアノ曲を作曲したものだと言われています。結局この恋も実りませんでした。

一回聞いただけで印象に残るメロディーをシンプルな旋律だけで紡ぎだしてしまうのは、天才の成せる業だとは思いますが、ベートーベンの才能の無駄遣いのようで、私はこの曲はあまり好きではありません(笑)。

Wellington’s Victory , Op. 91

スペインにてイギリス軍がフランス軍を破ったことを記念した曲です。16分ほどと、比較的短いです。

オープニングのスネアドラムやファンファーレが、ドラマチックです。勇ましい軍隊の行進や激しい戦闘の様子が劇的に表現されています。銃声を思わせる演出がユニークです。

Fidelio, Op.72

ベートーベンが完成させた唯一のオペラです。オペラなので、2時間超と、すごく長いですね。

モーツァルトとは異なって、ベートーベンはオペラの作曲が苦手だったそうです。8年という長い年月をかけて、修正に修正を重ねたうえで、やっと完成の日の目を見たのが、こちらのオペラです。

Piano Sonata No.32, Op. 111

著者のJohn Suchetさんが感嘆していますが、彼の言うように、まるでジャズのような軽快なメロディーが中盤に織り込まれています。時代を先取りしていますね。

30分ほどの長さです。一度でいいので、皆さんに是非とも聴いてみてもらいたい曲です。

Symphony No.7, Op.92 (交響曲第7番)

『パストラル』(‘Pastoral’)と共に、私のお気に入りの曲です。

堂々としたメロディーや、軽やかなリズム、悲壮感ただよう旋律など、変化に富んでいます。喜怒哀楽のみならず、決意や自尊心、絶望などの、人間のありとあらゆる心理状態が盛り込まれているように感じるのは、私だけでしょうか?

Symphony No.9, Op.15 ‘Choral’(交響曲第9番)

日本では年末に演奏されるのが恒例となっている、あの『第九』ですね。交響曲に歌を取り入れるというのは、当時画期的なことだったそうです。

聴いていて、四人のリードシンガーの方たちの声量に圧倒されました。

この曲が作曲されていた頃、ベートーベンの病状はすこぶる悪かったと思われます。

String Quartet No. 16, Op. 135

ベートーベンの最後の作曲です。

作曲活動の裏では、どんどん悪化していく病状に加えて甥カールの自殺未遂と、私生活は最悪の状況であったのにもかかわらず、陰鬱な曲調ではなく、どちらかというと軽やかな印象です。

既にこの世をたたれた人の人生に、もし、という言葉を当てはめるのは愚かな行為かもしれませんが、あえてそうするならば、もし、ベートーベンが幸せな恋愛、結婚に恵まれていたのなら、また、もし、ベートーベンが難聴という、音楽家にとって絶望的な運命に陥らなかったら、こうして何世紀経った後も人々に愛される作品を残せたのかなと疑問に思ってしまいます。

残酷な話ですが、数々の試練が訪れる中、限界がくるまで自分の中の音楽のすべてを出しきった後にこの世を去るという決意があったからこそ、あそこまで音楽を高めることができたのではないのかなと思ってしまうのです。だから、難聴という運命を受け入れた後の作品は特に、超人的な意志の強さと音楽に対する情熱が音符の一つ一つににじみ出ていて、聴く人の心に知らず知らずのうちに語りかけるのではないでしょうか?

苦悩を奥底に秘めながらも猛進するライオンのようで、ベートーベンの生きざまには勇気をもらえます。(ベートーベンが生前、”leonine”「ライオンのような」と呼ばれていたのも、納得のいくところです。)

死の間際まで交響曲10曲目を構想していたというベートーベン。

この本を読み返してみて、戦争、家族との確執、難聴などの波乱に満ちた人生を走り抜けながらも、不朽の名作を私たちに残してくれた、癇癪もちで破天荒、しかし、時にはユーモラスな、この風変わりな音楽家が、より好きになりました。

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