引っ越し作業を進めていた2015年11月、救急車で病院まで搬送される羽目になりました。
その頃私たちは、グラニー・フラット(”Granny Flat”、母屋とは別に建てられた離れのこと。グラニー・フラットだけを賃貸するケースも、オーストラリアでは珍しくありません。)から隣町のアパートに引っ越しするため、荷物を段ボールに詰め、リビングルームの片隅に積み上げて、引っ越し当日を待っておりました。
その当時住んでいたグラニー・フラットは、1ベッドルーム、1リビングルームの、こぢんまりとした作り。一人暮らしには十分の広さでしたが、のんきオージー君と同居を始めて荷物も二人分に増えたので、遅かれ早かれもっと広い家に引っ越す必要があると考えていた矢先に、オーナーから物件の賃貸をやめたいとのことで退去依頼が来たのです。
引っ越し先のアパートは間もなく見つかり、不動産業者との契約手続きも終え、引っ越しの準備は順調でした。
(実は、この後、引っ越し先の新しいアパートでトラウマになるほどの壮絶な経験をするのですが。)
その日はリビングルームのソファで、のんきオージー君と二人でくつろいでいました。部屋の三分の一ほどを段ボール箱に占領されていましたが、圧迫感のある生活も残すところ数日です。
いつものようにテレビを見ながら、くだらない話をしてげらげら笑っていると、気管がきゅーっと、ストロー程度の細さに狭まるような感覚があって、息苦しくなっていきました。空気が狭くなった気道を無理して通っているようで、ゆっくりでないと呼吸ができません。
のんきオージー君が話しかけてきましたが、声が出てきません。ジェスチャーで、ちょっと待って、と合図をすると、のんきオージー君は、私がテレビのシーンに爆笑していて苦しがっていると思ったようです。なんとか呼吸の合間に、途切れ途切れ、「息がしにくい。お母さんに、どうしたらいいか聞いて。」とお願いすることができました。
のんきオージー君のお母さんは、看護婦なのです。のんきオージー君がすぐに、お母さんに電話をしてくれました。そして、彼女のアドバイスを仰ぐと、今すぐ救急車を呼びなさいとのことでした。
救急車なんて、大袈裟な。しばらく横になるとかすれば、治るのでは?と思ったのですが、そうこうしている間も、呼吸困難は続きます。一時的なものだろうと高をくくっていた私も、少しずつパニック状態になり始め、仕方なく救急車を呼んでもらうことにしました。
私はとても話をできる状態ではないので、のんきオージー君がトリプルゼロをダイヤルし、救急車を呼んでくれました。オーストラリアで救急車を呼ぶ場合は、119ではなく、000に電話をかけます。まさか自分たちがこの番号に電話をする日が来るとは、思ってもみませんでした。
あえて意識してゆっくりと呼吸をしながら待っていると、じきに遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきました。音は次第に大きくなり、やがてこれでもか!というほどの音量になった瞬間、突然、やみました。そして、ものの数秒もすると、2人の女性の救命士がさっそうと救命用具を持って入ってきました。救命士のユニフォームに身をつつみ、挙動もきびきびと、すごく恰好いいです!
二、三、質問されましたが、私はとても答えられる状態ではありません。うなずいたり、首を振ったりするので精一杯です。横からのんきオージー君が、私が何を食べたり飲んだりしていたのか、どう呼吸困難が始まったのかなどを説明してくれました。
説明を聞き、あらかた状況を把握した救命士の方が、ちょっと失礼するわね、と一言断り、私の太ももに注射を打ちました。すると、一分も経たないうちに、呼吸が楽になりました。何事もなかったかのように、普通に息が吸えます。まるで魔法のよう!
ところが、念のため病院でしばらく経過観察をするのが規定となっているとのことで、結局、救急車で運ばれることとなりました。注射を打ってもらって、それで解決と思っていたので、かなりがっかりしました。もう普通に呼吸もできるので、わざわざ救急車で運ばれるなんて、恥ずかしくもあります。
しかし、急いでお財布や携帯電話など最低限必要なものだけをバッグに詰め、救急車に乗り込むこととなりました。
初めて見る救急車の内部は、よく医療関係のドラマで見ていた光景そのものです。難しそうな機械や救急用具のようなものが車内に設置されています。私はストレッチャーに頭を運転席側にした形で横たわり、その横に救命士の一人が座りました。
病院に着いて、落ち着いたら電話してね、と手を振るのんきオージー君を残して、救急車は走り始めました。私の状態を確認しながら、救命士の方が、時折、気分はどう?と聞いてきてくれます。
車体の傾きや右折左折から察すると、マンリー・ホスピタル(”Manly Hospital”)を目指して走っているようです。道順は知っていましたが、サイレンを鳴らさずに走っているとはいえ、緊張しているからなのか、その道のりはとても長く感じました。
しばらくすると、マンリー・ホスピタルの位置する丘の上に向かって、救急車が勾配のきつい坂を登っていくのがわかりました。救急車はぐんぐん坂を登っていき、やがて停車しました。
救急車のドアが開かれると、目の前は病院の入口でした。そして、私はストレッチャーに横たわったまま、病院内へと運ばれて行きました。その間も、救命士たちが待機していた看護婦に何があったのか、テキパキと説明しています。そして、私を引き渡すと、救命士たちは去っていきました。
その後、私は、病院で一晩、様子を見ることとなりました。数時間で帰れるものと思っていたので、当然、着替えなどは持ってきていません。
細かくカーテンで仕切られた、ナースステーションの目の前と思われる大部屋の一角のベッドに横たわることになりました。時々、看護婦が血圧を測りに来たり、呼吸困難の原因解明のために血液を採っていったりします。しかし、それ以外は非常に暇です。時々、のんきオージー君と電話で話をしたり、携帯電話をいじったりしていましたが、それにも飽き、後はずっと周りの様子を伺いながらベッドに横になっていました。
私のベッドの右側には、カーテンの向こうに、何台か他のベッドがあるようでしたが、左側はすぐに廊下になっており、看護婦たちがせわしなく歩き回っています。足もとの方にも、数列、ベッドが並んでいるのが見えました。パソコンが廊下の壁際に何台か備え付けてあって、時折、看護婦がデータを入力していました。
そのフロアはどうやら、救急で運ばれた患者たちが待機させられている場所のようで、終始あわただしく、人の流れが止まることはありませんでした。緊急外来の窓口がすぐそこにあるらしく、そちらで行われている会話も、時おり聞こえてきました。
時々うとうとすることはありましたが、騒がしい環境の中で深い眠りに落ちることはありませんでした。そして、夕ご飯を食べ損ねた私は、空腹で仕方ありませんでした。深夜になっても周りは明るく、機械のビープ音が時おり鳴り響き、フロアが寝静まる気配はありません。
おそらく2時か3時くらいだったと思うのですが、症状の落ち着いている私は、同じ階の奥のエリアに移されました。そしてその時、おなかがすいていると伝えると、サンドウィッチをもらうことができました。食欲が満たされた私は、薄暗い静かなエリアに移ることができたので、数時間ですが、眠ることができました。
朝7時頃、ようやく看護師の方から、必要な時間様子を見て大丈夫だったから、もう帰っていいわよ、と退院の許可をもらいました。のんきオージー君はもう仕事に出ている時刻なので、病院からタクシーを呼び、自宅まで帰りました。そしてその日は、大事を取って仕事をお休みしました。
翌日、パスポートを持って、再度、マンリー・ホスピタルへ出向きました。救急車費用の清算のためです。私はプライベートの保険に加入していたので、まったく支出はありませんでしたが、保険請求のために、パスポートを持って手続きに行かないとならなかったのです。その時の費用は自費だったとしたらいったいいくらだったのかわかりませんが、もし保険に入っていなかったら、数万円の出費になっていたはずです。
そして数日経って、病院から一通の手紙が届きました。何やら難しそうなデータの記載された紙と共に、早急にGP(”General Practitioner”、一般開業医)の予約をするように、と指示の書いてある紙が同封されています。
さっそくGPに会いに行き手紙を見せると、データの意味を説明してくれました。血液検査の結果、私は数種類の植物に対するアレルギー反応があると記載されているとのことです。ところが、花粉以上に、ハウスダストに超がつくほど敏感な体質だと知らされました。引っ越し作業の最中で、荷造りの終わった段ボールに囲まれて生活をしているとGPに伝えると、あ~、それが先日の呼吸困難の原因だろうね、と言われました。
もともと日本にいた頃も花粉症を患っており、血液検査の結果、植物に対するアレルギー反応は指摘されていたのですが、まさかハウスダストに呼吸困難になるほど反応する体質であるとは、ショックでした。
きれい好きな私は比較的頻繁に掃除をするほうなのですが、それでも引っ越し作業中のほこりに対して、アレルギー反応が出てしまったわけです。ハウスダスト、恐るべし。
マンリー・ホスピタルはその後、別のエリアに近代的な新しい公立病院が建ったので、今では閉鎖されてしまっていますが、マンリーに行く機会あるとこの日の出来事を思い出します。そして、この一件以来、よりこまめに掃除をするようになりました。
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